
はい、こんにちは。嘘をつくことに関しては政治家さんにも負けない自信がある「にじいろのたか」です。
さて。
僕はつい最近まで、逃げたり、嘘をついたり、それが理由で自分に自信がなくなったり、相手を信じられなくなったりしていました。
自己肯定感もボロボロで、メンタルも安定しない、今思えば本当に闇の世界で生きてきたような気がします。
いきなり重い導入ですみません。でもでも本当のことなんです。
そんな僕が、嘘をつくのをやめる努力をし、逃げない選択をし、自分も周りも信じられるようになってきた今、ちょっとだけ「嘘」というものについて考察してみたいと思います。
ぜひ、今噓をついたり逃げたりしやすいなって思う人は読んでみてほしいです。
嘘をつくということ
嘘をつくのが当たり前になってくると、本当に自然に嘘が口から出てくるようになる。
心を介さずに、脳を介さずに、本当に自然と。反射のように。
本当のことを言わない、当たり障りのない自分しか見せない、それが楽だから嘘を重ねていく。
それが定着すると、嘘をついて出来たもう一人の自分が出来上がる。
そのもう一人の自分がまた嘘をつく。
面倒なこと避けたくて嘘をつく
頑張っている自分でいたいから嘘をつく。
好かれたくて好かれようとして嘘をつく。
それがなんとなく上手くいくから、成功体験として勘違いしてまた嘘をつく。その繰り返し。
本当のことも、確かにあった。
情熱に燃えて、前だけを見ていた自分もいた。
ただ、その記憶さえも、
「それも本当にあったことだったのかな?」
「あの頃の自分も、どこかで嘘をついていたんじゃないか?」
そんなふうに思えてしまう。
嘘の記憶のほうが強すぎて、
今の自分が過去を語ろうとすると、
本当だったことも、嘘のように思えてしまう。
それが、怖かった。
嘘をついた自分は消えない
自分に正直に生きようとしても、
あの頃、嘘をついていた自分は消えない。
それは、もう自分の心の中に刻まれている。
過去の自分は、変えることができないから。
そしてその過去が、ときどき、
正直に生きようとする今の自分を
また“嘘の道”に引き戻そうとすることもある。
嘘をついていた自分も自分
「嘘をついていた自分が嫌いだ」
昔の僕は、そう思っていた。
でも、そう思えば思うほど、
頭の中には“嘘をついていた自分”の記憶ばかりが浮かぶ。
それって、逆に自分の中の“嘘をつく自分”を
ずっと引きずることになっていたんだと、今ならわかる。
「嘘をつく自分も、自分の一部なんだ」
そう認めることが、必要だったのかもしれない。
嘘をついていた自分を「過去のもの」にしようとするんじゃなくて、
今も自分の中にいて、ただ静かに見ている存在なんだと考えるようになった。
弱い自分が、心の中にそっといて、
ときどきこう言ってくる。
「いつでも交代してもいいよ」
でも、そう言われたとき、今の僕は
「大丈夫。今は君の出番じゃないよ」って
やさしく、静かに返すことができるようになった。
正直に生きようとする自分も嘘をつく自分も好き。
ちょっと、固い口調が疲れちゃったから少し緩く行きたいと思うんだけど。
嘘をつく自分がいて、正直に生きようとする自分もいて。
だから優しくなれたり、厳しくなれたり、迷ったり、戻ったり、突き進んだり。
これが自分らしさを作っているのかなと思うんだよね。
その考え方になれた「自分偉い」って思うし、
気づかないままの自分の世界線想像してゾッとしたりもするんだけど、
それならそれで自分なら良い答えを見つけるのかもなあなんて思ったり。
例えば「人を幸せにする噓だけつこう」みたいな人生になってるかもしれないし。
なんて、こうやって自分に自信持ててるから楽観的にそう思うんだろうけど。
まあ、色々思いを巡らせて感じるのは自分の人生は順調だなってことかな。
なんか、締めがぼやっとした気がするけど、今の僕が思っている「噓」についての考察でした。
もし、これを読んでいる時点で噓をつくことで悩んでいる人がいたら、ぜひ正直に生きることと、噓をつく自分も認められるように考えてみること、試してみたもらいたいな。きっといい方向に向かうと思う。
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